【結論】次田展之さんが免許を取ったのは1995年・カリフォルニア。師匠は、日本初のプロ・エアショーパイロットと同じ人物でした。
- 免許取得は1995年、日本大学医学部の在学中
- 師事したのはショーン・タッカー氏
- 同じ年、ロック岩崎さんも同じ師匠に入門していた
- エアロック加入は2002年、2番機パイロットとして
- エアショーパイロットとしての活動は2年ほど
- 百島診療所の開設は、その8年後の2011年
- 免許をいつ・どこで取ったのか
- 師匠のショーン・タッカー氏とは何者か
- エアロックというチームの正体
- 2番機に選ばれた背景の考察
- その後チームがどうなったのか
2026年8月9日(日)よる11時15分、TBS系「情熱大陸」に
次田展之(つぎた のぶゆき)さんが登場します。
肩書は「診療所医師・パイロット」。
気になるのは「医者がどうやってパイロットになったのか」という部分だと思います。
調べていくと、日本のエアショー史の中心にいた人物とつながっていました。
【考察】2番機に選ばれたのは、たまたまではないと考える理由
ここからは編集部の考察です。
結論から書きます。
次田さんがエアロックの2番機パイロットになれたのは、1995年のカリフォルニアで同じ師匠のもとにいたからだと考えます。
医者が趣味で飛んでいたら声がかかった、という話ではありません。
理由1:二人の渡米が同じ年、同じ州、同じ師匠
まず次田さん側。
日本経済新聞の連載「人間発見」では、1995年にカリフォルニアで小型機の免許を取ったと紹介されています(日本経済新聞)。
番組公式のプロフィールにも、現地でアクロバット飛行を目にしてショーン・タッカー氏に弟子入りしたと書かれています(情熱大陸公式サイト)。
次にロック岩崎さん側。
航空自衛隊を1995年7月に二等空佐で退官し、エアショーパフォーマーを目指して渡米。
カリフォルニア州キングシティーのショーン・D・タッカー氏に師事しました。
| 次田展之さん | ロック岩崎さん | |
|---|---|---|
| 1995年 | カリフォルニアで免許取得 | 7月に退官し渡米 |
| 師匠 | ショーン・タッカー | ショーン・D・タッカー |
| 立場 | 医学部の学生 | 元・戦闘機パイロット |
年も、州も、師匠も重なります。
片や医学部の学生、片や元空自のトップパイロット。
まったく違う人生の二人が、同じ小さな飛行場で顔を合わせていた可能性は高いと考えます。
理由2:エアロックは「誰でも入れるチーム」ではなかった
ロック岩崎さんは1996年3月にプロ・エアショーライセンスを取得して帰国し、
同年8月に日本初の職業エアロバティックチーム「エアロック」を設立します。
「民間版ブルーインパルス」を掲げたチームでした。
デビューは1996年11月、和歌山県の南紀白浜空港で行われた「スカイレジャージャパン’96」。
機体はピッツS-2Bです。
そこから6年間、パイロットは岩崎さん1人でした。
2002年、ここに2機目が加わります。
チームの年表によれば、この年に「ノブ次田」が2番機パイロットとしてデビューし、念願のフォーメーションフライトが始まったとされています。
設立から6年、初めて隣に並んだ人。
技量と信頼の両方がなければ任されないポジションです。
理由3:離脱の早さが「別の目的地」を示している
ところが、この2機編隊は長く続きませんでした。
年表では2003年にノブ次田が離脱し、ソロショーへ戻ったとされています。
エアショーパイロットとしての活動は、実質2年ほどということになります。
ここが大事なところだと思っています。
次田さんはエアショーの世界で頂点を目指した人ではなかった。
日本一のチームで2番機まで務め、そこから降りて、8年後の2011年に離島の診療所を開いています。
つまり空の技術は目的ではなく、後で医療と組み合わせるための道具になった。
2002年の2番機は通過点で、本番はそのあとだった、と読んでいます。
師匠のショーン・タッカー氏とは
アメリカを代表するエアショーパイロットです。
日本経済新聞の連載では、次田さんが現地で見た光景として、
小さな複葉機が宙返り・急上昇・きりもみ回転を、低空で、しかも目の前で繰り返していたという描写が紹介されています。
免許を取るためだけに渡米した医学部生が、その場でもう1つの進路を見つけてしまった。
そういう出会いだったようです。
そして同じ人物のもとで、日本の元戦闘機パイロットも訓練を積んでいました。
日本のプロ・エアショーの源流が、この1か所にあったことになります。
エアロックの年表
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1995年7月 | ロック岩崎が航空自衛隊を退官、渡米 |
| 1996年3月 | プロ・エアショーライセンスを取得し帰国 |
| 1996年8月 | エアロック設立 |
| 1996年11月 | 南紀白浜空港でデビュー(ピッツS-2B) |
| 2000年 | 2号機ピッツS-2Cを導入 |
| 2002年 | ノブ次田が2番機でデビュー、編隊飛行を開始 |
| 2003年 | ノブ次田が離脱、ソロショーへ |
| 2005年4月21日 | 訓練中の事故でロック岩崎が死去 |
| 2010年3月 | チームの活動が終了 |
次田さんが在籍したのは、この表のうち2002年から2003年まで。
チームが最も充実していた、2機で飛べた唯一の時期にあたります。
空を降りたあと、何をしていたのか
2003年にチームを離れてから、2011年に百島診療所を開くまでの8年間。
公式プロフィールに並ぶのは医師としての職歴です。
- 帝京大学医学部附属市原病院
- 湘南第一病院
- サガミホームクリニック 副院長
そして2011年、広島県尾道市の百島に診療所を開設します。
医師が不在だった島でした。
ここから、飛ぶ技術の使い道が変わります。
2018年に佐木島、2026年に岩城島。
現在は3つの島の診療所をヘリコプターで回っています。
曲技のための操縦が、島の診療所を開けるための操縦になったわけです。
注意しておきたい点
エアロックの年表は二次情報
この記事で使ったエアロックの年表は、チームを紹介する公開資料をもとにしています。
番組公式のプロフィールで確認できるのは「2002年にエアロックに所属し、エアショーパイロットとして活躍した」という部分までです。
飛行機とヘリコプターは別の免許
1995年に取得したのは小型飛行機の操縦免許です。
一方、現在の診療で使っているのはヘリコプター。
この2つは別の資格になります。
ヘリの免許をいつ取ったのかについては、公表資料で確認できませんでした。
よくある質問
Q1. パイロット免許はいつ取ったのですか?
1995年、カリフォルニアです。日本大学医学部の在学中で、免許取得のために渡米しました。1973年1月生まれなので22歳前後にあたります。
Q2. なぜアクロバット飛行を始めたのですか?
渡米先でアクロバット飛行を目にしたことがきっかけです。番組公式サイトによると、そのままショーン・タッカー氏に弟子入りしています。免許取得だけの予定が変わった形です。
Q3. エアロックとはどんなチームですか?
日本初の職業エアロバティックチームです。元航空自衛隊のロック岩崎さんが1996年8月に設立し、「民間版ブルーインパルス」を目指しました。2010年3月に活動を終えています。
Q4. どれくらいの期間、エアショーに出ていたのですか?
チームの年表では2002年にデビューし、2003年に離脱とされています。2年ほどです。ただし所属前後の活動については確認できていません。
Q5. ロック岩崎さんと関係があったのですか?
同じ師匠に学んでいます。二人ともショーン・タッカー氏に師事し、しかも渡米した年が同じ1995年です。ただし現地で交流があったことを示す資料は確認できていません。
Q6. 今も曲技飛行をしているのですか?
公表されている情報では確認できていません。現在の活動として紹介されているのは、ヘリコプターで3つの島の診療所を回ることです。
今後の見通し
放送では、番組の性質上離島医療の現在が中心になると思われます。
ただ、番組公式のプロフィールにわざわざ「エアロック」の名前が入っている以上、
空の経歴にも触れられる可能性は高いでしょう。
個人的に注目したいのは、「なぜ2003年にエアショーを降りたのか」です。
日本一のチームで2番機を務めていた人が、その座を離れています。
その理由が語られるなら、離島へ向かった動機とつながっているはずだと予想します。
もちろんこれは編集部の予想で、触れられないまま終わるかもしれません。
まとめ
次田展之さんがパイロット免許を取ったのは1995年、カリフォルニア。
医学部の在学中でした。
現地でアクロバット飛行に出会い、ショーン・タッカー氏に弟子入りしています。
同じ1995年、日本初のプロ・エアショーパイロットとなるロック岩崎さんも、
同じ師匠のもとで訓練を受けていました。
そして2002年、次田さんはエアロックの2番機パイロットとしてデビューします。
この記事では、2番機に選ばれた背景を「同じ師匠のもとにいた縁」と考察しました。
本人の言葉は2026年8月9日の放送で確かめられそうです。