【結論】麻生要一郎さんは子どもの頃鶏肉・卵・きゅうり・じゃがいも以外はほとんど食べない子でした。料理家とは正反対の出発点です。
- 茨城県水戸市生まれ。祖父が創業した建設会社の長男
- 期待されていたのは「声が大きくてガキ大将みたいな子」
- 実際は草花を摘んで歩き、友達はクマのぬいぐるみだけ
- 好き嫌いではなく「食べない」に近い状態だった
- 初めて作った料理は小学3年生のチャーハン
NHK「ネコメンタリー」に出る麻生要一郎さんは、いまや家庭料理の作り手として知られています。
ところが子ども時代の話を読むと、印象がかなり変わります。
食べられるものが、指で数えられるほどしかなかったからです。
ポッドキャストとインタビューで本人が語った内容を整理しました。
- 何なら食べられたのか
- 跡取りへの期待とどうズレていたか
- 偏食が変わったきっかけ
- 初めて作った料理の中身
【考察】なぜ「食べない子」が料理家になったのか
ここからは編集部の考察です。
麻生さんの子ども時代は、好き嫌いの多い子という言葉では足りません。
本人の表現は「『食べない』みたいな感じ」です。
その人が、いま人に食べてもらう仕事をしている。
この逆転は、どう説明できるでしょうか。
結論から言うと、
食べる側から作る側に回ったことで、食べ物が「決められるもの」に変わったからだと考えます。
味覚が変わったのではなく、立場が変わったという見方です。
そう考える理由を7つ挙げます。
理由1:偏食の範囲が極端に狭かった
まず前提の確認です。
麻生さんが挙げているのは「鶏肉は食べる、卵は食べる、きゅうりとジャガイモは好き」という4つ(クックパッドニュース)。
そして「あとは別にいらない」。
ピーマンが苦手といった水準ではありません。
ここまで狭いと、出されたものを食べるという受け身の形では動きようがありません。
理由2:家では「期待とのズレ」を抱えていた
麻生さんは祖父が創業した建設会社の長男です。
望まれていた姿は「声が大きくてガキ大将みたいな子」。
実際の麻生さんは近所で草花を摘んで歩き、友達はクマのぬいぐるみだけという子どもでした。
食卓だけでなく、存在そのものが家の期待と噛み合っていなかったことになります。
理由3:ズレを「直さない」と決めていた
ここが重要だと見ています。
麻生さんはそのズレに幼い頃から気づいていたとしたうえで、「気づいていても変えられないというか、変えないっていうところはありましたね」と語っています。
合わせにいかない構えが、すでにこの時期にあった。
食べたくないものを食べない、という態度と地続きです。
理由4:扉を開いたのは「作る過程を見せる」やり方だった
偏食を動かしたのは、叱ることでも隠すことでもありませんでした。
祖母は買い物から一緒に出かけ、台所に立つところを見せ、手伝わせてから食べさせたと伝えられています。
食べる直前ではなく、手前の工程から巻き込む方法です。
この順番が効いたのだと考えます。
理由5:「自分のために」が食べる理由になった
麻生さん本人の説明はこうです。
「自分のためにやってくれているんだ」と感じると、不思議と食べる気になった。
嫌いな食材も、祖母が揚げた天ぷらなら一応口に入れられたといいます。
味ではなく誰が何のために作ったかが判断材料になっている。
のちに麻生さんが語る料理観と、同じ形をしています。
理由6:小3で「刻めば食べられる」を自分で発明した
決定的なのがこの場面です。
初めて自分で料理をした小学3年生のとき、麻生さんは祖母のチャーハンを真似ました。
そこで嫌いなはずのピーマンを、自分から包丁で刻み始めたのです。
本人の回想は「めちゃくちゃ細かく刻んで、『これぐらい細かく刻めば大丈夫だろう』とか思いながら刻んでやる」。
食べられない食材を、自分の裁量で食べられる形に変えた。
作る側に回った瞬間だと見ています。
理由7:好きだと言えない環境が長く続いた(ここは予測)
ここからは予測です。
麻生さんは、水戸の建設会社の家には「男子かくあるべし」という空気があり、料理が好きとは言えないと思っていたと語っています(ウェルビーイング100 by オレンジページ)。
表に出せない時間が長かったぶん、料理が誰にも邪魔されない自分の領域として育ったのではないか、と見ています。
ただしこれは編集部の推測で、本人がそう述べた記述は確認できていません。
以上はあくまで編集部の考察です。
偏食がいつ、どの程度おさまったのかについて、具体的な説明は公表されていません。
子ども時代のプロフィール
公表されている範囲で整理します。
生年は1977年で、最新刊の副題「1977-2025」がその根拠です。
| 項目 | 確認できる内容 |
|---|---|
| 出身 | 茨城県水戸市 |
| 家業 | 祖父が創業した建設会社。麻生さんは長男 |
| 望まれた姿 | 「声が大きくてガキ大将みたいな子」 |
| 実際の姿 | 近所で草花を摘んで歩く。友達はクマのぬいぐるみだけ |
| 食べられたもの | 鶏肉、卵、きゅうり、じゃがいも |
| 初めての料理 | 小学3年生のとき作ったチャーハン |
こうした生い立ちは、2026年1月に出た初の自伝にもまとめられています。
放送を見て人物のほうが気になった方には、そちらが手がかりになります。
▼ 麻生要一郎さんの著書はこちらから
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「食べない子」はどのくらい食べなかったのか
麻生さんは自分の偏食について、程度が普通ではなかったと説明しています。
本人の言葉は「『ピーマンが嫌い』『人参が苦手』といったレベルではない」という趣旨で、「『食べない』みたいな感じだったので」と続きます。
そのうえで挙がる食べられるものが、先の4つです。
注目したいのは、4つのうち2つが鶏肉と卵である点です。
のちに麻生さんのお弁当の定番になるのが卵焼きで、連載ではレシピも公開されています。
食べられた数少ない食材が、そのまま仕事の看板になった形です。
初めて作ったチャーハン
麻生さんが初めて自分で料理をしたのは小学3年生のときです。
母の帰りが遅くなった夜、お腹が空いて台所に立ちました。
作ったのは祖母のチャーハンを真似たもの。
レシピを見たわけではなく、見よう見まねです。
ここで麻生さんは、嫌いなはずのピーマンを自分で刻んで入れました。
入れなくてもいい場面で、あえて入れる。
しかも食べられる大きさになるまで細かくする。
子どもなりの工夫が、そのまま調理の考え方になっています。
誤解しやすい点
| 誤解されやすい書かれ方 | 確認できること |
|---|---|
| 小さい頃から食いしん坊だった | 本人は「食べない」に近い状態だったと語っている |
| 料理好きな家庭で育った | 家業は建設会社。父には「男子かくあるべし」という考えがあり、料理好きとは言えなかった |
| 調理師学校を出ている | 調理師学校や飲食店での修業歴は確認できない |
| 偏食は誰かに直された | 叱って直した話ではなく、買い物や調理に巻き込む形だったと語られている |
よくある質問
Q1. 麻生要一郎さんの出身地はどこですか?
茨城県水戸市です。
祖父が創業した建設会社の長男として生まれました。
のちにその家業を継ぎ、30歳を前に退社しています。
Q2. 何歳から料理をしていますか?
初めて自分で作ったのは小学3年生のときと語っています。
母の帰りが遅い夜に、祖母のチャーハンを真似たものでした。
ただし仕事として料理を始めたのは、ずっとあとのことです。
Q3. 偏食はいつ直ったのですか?
時期は公表されていません。
語られているのは、祖母が買い物から調理まで一緒にやることで食べられるようになった、という経緯です。
何歳で解消したという記述は確認できません。
Q4. どんな子どもでしたか?
近所で草花を摘んで歩く子どもで、友達はクマのぬいぐるみだけだったと語っています。
家が望んでいた「ガキ大将みたいな子」とは正反対でした。
本人はそのズレに幼い頃から気づいていたといいます。
Q5. 父親はどんな人でしたか?
麻生さんは「男子かくあるべし」みたいなところが父親にはあったと語っています。
そのため料理が好きとは言えなかったそうです。
父は麻生さんが19歳のときに亡くなりました。
Q6. 放送で子ども時代は出てきますか?
2026年8月21日(金)のNHK Eテレ「ネコメンタリー」は「流れ流され、移ろい続けた料理家の半生」を描くと紹介されています。
半生をたどる構成であることは分かりますが、子ども時代がどこまで扱われるかは放送を見るまで分かりません。
まとめ
麻生要一郎さんは、鶏肉・卵・きゅうり・じゃがいも以外はほとんど食べない子どもでした。
建設会社の跡取りに望まれた姿とも、大きくズレていました。
食べる側から作る側に回ったことが、その状態を動かしたと考えられます。
象徴が、小学3年生のチャーハンに入れた細かく刻んだピーマンです。
2026年8月21日(金)22時30分からのNHK Eテレ「ネコメンタリー」で、その半生が描かれます。