【結論】広田尚敬さんの父は東京弁護士会の副会長を務めた弁護士でした。
- 職業は弁護士(東京弁護士会副会長)
- 学歴は福島の尋常小学校卒まで
- 卒業後すぐ丁稚小僧になった
- 働きながら司法試験に合格
- 鉄道の職歴は尾久操車場の構内手と列車ボーイ
- 東京〜青森の駅名をすべて暗唱できた
- 広田尚敬さんの父親の職業と経歴
- 父が鉄道の現場で働いていた話
- 最初のカメラを貸したのが誰か
- 両親を亡くしたあと兄と交わした約束
- 2026年8月23日放送回の情報
「鉄道写真の神様」と呼ばれる
広田尚敬さんが2026年8月23日、
NHK Eテレ「日曜美術館」に登場します。
この人がなぜ鉄道にのめり込んだのか。
たどっていくと、
父親の職歴に行き当たります。
本人が雑誌の取材で語った内容をもとに整理しました。
【考察】父の経歴がなければ「鉄道写真の神様」は生まれなかった
ここからは編集部の考察です。
結論を先に書くと、
広田さんの鉄道好きは「子どもの趣味」ではなく、父から手渡された知識と道具の結果だと考えています。
そう読める材料を6つ挙げます。
理由1:父自身が鉄道の現場で働いていたから。
父は弁護士になる前、
尾久操車場で構内手をしていました。
さらに列車ボーイとして東北本線に乗務した経験もあります。
鉄道を外から眺めていた人ではなく、
車両と線路の内側にいた人です。
家庭で語られる鉄道の話の解像度が、
そもそも普通の家とは違いました。
理由2:知識が具体的すぎたから。
父は乗務経験から
東京〜青森間の駅名をすべてそらんじていたといいます。
幼い広田さんが明け方に父の布団へもぐりこむと、
父は「今どこどこを走ってるよ」と言いながら
汽車の話をしてくれたそうです。
広田さんはそれを聞くのが「無上の楽しみ」だったと振り返っています。
抽象的な憧れではなく、路線図が身体に入る形で渡されていました。
理由3:最初のカメラも父のものだったから。
初撮影は中学3年、14歳のとき。
使ったのは父が持っていた「ベビーパール」という小型カメラでした。
知識だけでなく、
撮る道具まで父の手元から出ていることになります。
鉄道と写真という二つの要素が、
同じ場所から供給されていました。
理由4:父の生き方が「働きながら学ぶ」型だったから。
父は福島の尋常小学校を出てすぐ丁稚小僧になり、
その後も働きながら勉強を続けて司法試験に合格しました。
広田さんはこの父を「努力の人」と表現しています。
広田さん自身も写真学校には行かず、
商社に勤めてから独立しています。
正規ルートを踏まずに職を作るという点で、
親子のやり方は重なって見えます。
理由5:早くに父を失ったことが独立を早めたから。
広田さんが高校3年のとき、父と母が相次いで亡くなりました。
進路を決める直前に後ろ盾を失っています。
ここで銀行勤務の長兄が親代わりになり、
写真学校志望に強く反対しました。
反対されたことで期限つきの約束が生まれたという見方ができます。
理由6:兄の出した条件が期限になったから。
長兄の言い分は
「一般の大学を出て会社勤めをしろ」。
理由を尋ねると「俺が親戚から何を言われるか分からない」でした。
その代わりに、
会社に入って1年経ったら何をやってもいいと言われています。
広田さんは商社にちょうど1年勤めて辞めました。
約束を守った上で、最短で出た形です。
以上は編集部の考察・推測であり、
本人がこの因果を語ったわけではありません。
ただ、父の職歴・父のカメラ・兄の条件という
3つの事実が並んでいるのは確かです。
父はどんな人だったのか
広田さんが雑誌『サライ』の取材で語った内容を
整理すると、次のようになります。
| 職業 | 弁護士 |
| 役職 | 東京弁護士会 副会長 |
| 学歴 | 福島の尋常小学校卒 |
| 最初の仕事 | 丁稚小僧 |
| 鉄道での職歴 | 尾久操車場の構内手/列車ボーイ(東北本線) |
| 特技 | 東京〜青森間の駅名をすべて暗唱 |
| 家族旅行 | 熱海によく連れて行った |
父は家族をよく旅行に連れて行き、
熱海では夜店で電車の模型を買ってもらうのが恒例だったといいます。
広田さんの家は東京・芝にあり、
すぐ近くを路面電車が走っていました。
赤ん坊の頃、ぐずっていても母が電車を見せに行くと泣きやんだそうです。
1kmほど先には東海道本線が通り、
冬の朝には汽笛が聞こえてきました。
▼ 蒸気機関車の写真集はこちらから
※広田さんの作品を含む蒸気機関車の写真集を探せます。
両親を亡くしたあとの家族
高校3年で父と母を相次いで失った
広田さんは5人兄弟の真ん中です。
高校3年のとき、
父と母が相次いで亡くなりました。
残された弟妹の面倒を見たのは、
銀行に勤務していた長兄でした。
進学と就職の判断は、
この長兄が握ることになります。
「1年勤めたら何をやってもいい」
広田さんは高校卒業後、
写真学校へ進みたいと考えていました。
長兄に相談すると返ってきたのは「とんでもない」。
理由を聞くと「俺が親戚から何を言われるか分からない」でした。
親代わりとして勝手はさせられない、という立場です。
ただし条件も付きました。
会社に入って1年経ったら何をやってもいい——。
妻と息子も表現の仕事だった
広田さんの妻はハーブ研究家の広田靚子(せいこ)さんです。
広田さんは妻の著書で写真を担当したことがあり、
草花の写真でも作品を残しています。
次男の広田泉さんも鉄道写真家でしたが、
2022年3月28日に亡くなりました。
親子3代にわたって鉄道と写真が続いた家です。
2026年8月23日の放送情報
| 番組 | 日曜美術館 |
| タイトル | 鉄道のくにを撮る 写真家 広田尚敬 |
| 放送日時 | 2026年8月23日(日)午前9:00〜9:45 |
| 放送局 | NHK Eテレ1・東京 |
| 再放送 | 2026年8月30日(日)午後8:00〜8:45 |
番組の予告には
「14歳の頃から今に至る傑作の数々を紹介」とあります。
その14歳の一枚を撮ったカメラが
父から借りたベビーパールだったという点は、
放送を見るうえで押さえておきたいところです。
よくある質問
父親の名前は公表されていますか?
本記事の執筆時点では、
父親の氏名は確認できませんでした。
広田さんが語っているのは職業と経歴までです。
推測で名前を書くことはできないため、
ここでは触れないでおきます。
父はなぜ鉄道の仕事をしていたのですか?
司法試験に合格する前、
働きながら勉強を続けていた時期の仕事だったと語られています。
尾久操車場の構内手と、
東北本線に乗務する列車ボーイです。
生活のための仕事が、
結果的に息子へ渡す知識になりました。
母親についての情報はありますか?
広田さんが語っているのは、
赤ん坊の頃にぐずるとおんぶして電車を見せに行ったという話です。
職業などの詳細は公表されていません。
父とともに、広田さんが高校3年のときに亡くなっています。
きょうだいは何人ですか?
5人兄弟で、広田さんはその真ん中です。
両親の死後、弟妹の面倒を見たのは
銀行に勤めていた長兄でした。
他のきょうだいの職業は公表されていません。
写真学校には結局行かなかったのですか?
行っていません。
長兄の反対で中央大学経済学部に進み、
卒業後は商社に就職しました。
写真の専門教育を受けないまま、
1960年にフリーの写真家になっています。
90歳でも元気なのはなぜですか?
本人は特別なことはしていないとしたうえで、
「鉄道写真を撮る中で昔から歩いているから」ではないかと語っています。
机の前に座っているより歩いたほうが脳も働く、
という趣旨です。
父から受け取った鉄道への関心が、
結果として歩く習慣になったという見方もできます。
まとめ
広田尚敬さんの父は
東京弁護士会の副会長を務めた弁護士。
福島の尋常小学校を出て丁稚小僧になり、
尾久操車場の構内手や列車ボーイをしながら
司法試験に合格した人でした。
東京〜青森の駅名を暗唱でき、
幼い息子に汽車の話を聞かせています。
最初のカメラも父のベビーパール。
高校3年で両親を亡くしたあとは、
長兄の「1年勤めたら何をやってもいい」という条件のもとで
会社員を経て独立しました。
この先の放送で家族の話がどこまで出るかは分かりませんが、
90歳の今も歩いて撮り続けているという一点に、
父から受け取ったものが残っています。
放送は8月23日(日)午前9時からです。