【結論】引退の決め手は網膜剥離寸前という診断でした。
最後の試合は1981年3月8日。
場所は沖縄県具志川市(現在のうるま市)の市立総合体育館です。
14度目の防衛戦にして、初めての地元での凱旋試合でした。
結果は敗戦。
唯一の黒星が、故郷のリングでついたことになります。
2026年8月31日(月)15時、NHK Eテレ「ハートネットTV 私のリカバリー」で放送されます。
- 最後の試合は1981年3月8日(14度目の防衛戦)
- 会場は沖縄・具志川市立総合体育館(現うるま市)
- 相手はペドロ・フローレス選手(メキシコ)との再戦
- 8回と12回にダウンを喫し、セコンドがタオルを投入
- 本人は「ダウンしたことも翌日の報道で知った」と語っている
- その後網膜剥離寸前と診断され1か月通院
- 新婚の妻と話し合ったうえで引退を決断
- 放送は8月31日(月)15:00・NHK Eテレ
- 最後の試合で何が起きたか
- 引退を決めるまでの経緯
- 引退後にやってきたこと
- 「リカバリー」と呼べる理由の考察
番組シリーズの名前は「私のリカバリー」です。
25歳で頂点から降りた人が、その後どうしたのか。
まずは編集部の考察からです。
【考察】立ち直れたのは、引退が「負けたから」ではなく自分で選んだ判断だったからだと予想する
ここからは編集部の考察です。
25歳での引退から今日まで表舞台に立ち続けられたのは、辞め方を自分で決められたからだと予想します。
負けて終わったのではなく、負けたあとに自分で線を引いたという読みです。
そう考える理由を10挙げます。
理由1。敗戦直後に引退を決めていないからです。
試合後には再戦の話が出ていました。
その場の感情で辞めたのではありません。
理由2。判断材料が医学的だったからです。
網膜剥離寸前と診断され、1か月通院しています。
感情ではなく診断という事実を挟んでいます。
理由3。自己評価を言葉にしているからです。
「元のようには戦えない」と思ったと語っています。
自分の状態を自分で見積もったうえでの結論です。
理由4。ひとりで決めていないからです。
新婚の妻と話し合ったすえの決断だったとされています。
相談相手がいる状態での判断は、後から揺れにくいものです。
理由5。負け方の記憶が薄いからです。
本人は序盤でパンチが目に入りそのあとは記憶が無く、ダウンしたことも翌日の報道で知ったと語っています。
皮肉ですが、反芻する映像が本人の中に少ないことになります。
理由6。次の役割がすぐにあったからです。
引退後は解説者として活動を始めています。
競技から離れず、関わり方だけを変えた形です。
理由7。育てる側に回っているからです。
1995年、日本人初の世界王者白井義男さんと共同で白井・具志堅スポーツジムを開設。
会長として後進の育成に取り組みました。
理由8。育成が結果を出しているからです。
元日本スーパーフライ級王者の名護明彦さん、元OPBF東洋太平洋ライトフライ級王者の嘉陽宗嗣さんらを育てています。
2017年には所属の比嘉大吾選手がWBC世界フライ級王者になりました。
理由9。閉じ方も自分で決めているからです。
ジムの閉館時、「気力、体力ともに、これまでのように情熱を持っての指導に当たるには難しい年齢になった」と公式に説明しました。
ここでも自分で線を引いています。
理由10。別のフィールドを拒まなかったからです。
2010年に太田プロダクションへ所属し、バラエティで新しい層に知られるようになりました。
過去の肩書きに閉じこもらなかったことが、50年後も現役の理由です。
以上より、回復の起点は自分で辞め方を決めたことだと予想します。
ただしこれは公表された経緯からの考察であり、本人がそう説明しているわけではありません。
最後の試合で起きたこと
1981年3月8日の試合を時系列で追います。
相手は前回の防衛戦で対戦したペドロ・フローレス選手でした。
| 場面 | できごと |
|---|---|
| 序盤 | 調子は悪くなかったが、パンチが目に入り視界が悪化 |
| 中盤以降 | 挑戦者のプレッシャーをかわし切れなくなる |
| 8回 | 最初のダウン |
| 12回 | 右ストレートを受け2度目のダウン。立ち上がるも追撃を受ける |
| 12回1分45秒 | セコンドからタオル投入。王座陥落 |
| 試合後 | 再戦の話が出るが、網膜剥離寸前の診断で1か月通院 |
| その後 | 新婚の妻と話し合い、引退を決断 |
本人の証言でいちばん重いのはこの部分です。
「最初調子は悪くなかったが、序盤でパンチが目に入り、目がよく見えなくなり、そのあとは記憶が無く、ダウンしたことも翌日の報道で知った」。
故郷の大観衆の前で何が起きたのか、本人には残っていませんでした。
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引退後にやってきたこと
1981年からの歩みを並べます。
ボクシングから離れた時期はありません。
| 時期 | できごと |
|---|---|
| 1981年 | 引退。解説者として活動を開始 |
| 1995年 | 白井義男さんと共同で白井・具志堅スポーツジムを開設 |
| 2010年4月 | 太田プロダクションに所属 |
| 2010年5月 | プロボクシング世界チャンピオン会を設立 |
| 2010年6月 | 『クイズ!ヘキサゴンII』出演をきっかけに準レギュラーへ |
| 2011年5月 | BEGIN・夏川りみさんと石垣市の観光大使に |
| 2015年 | イクメン・オブ・ザ・イヤー(イクジイスポーツ部門)受賞 |
| 2017年5月20日 | 所属の比嘉大吾選手がWBC世界フライ級王者に |
| 2020年7月31日 | 白井・具志堅スポーツジムを閉館 |
2017年の比嘉大吾選手の戴冠は、所属ジムから初の正規世界王者でした。
自分が獲ったものを、36年かけて教え子に獲らせたことになります。
本人が語る「臆病者」という自己評価
意外な証言が残っています。
現役時代はダウンした相手を殴り続けるほど気性が荒かった一方で、自分では臆病者だと語っているのです。
本人の言葉はこうです。
「周りから引っ張られたからボクシングを続けた。控え室に誰もいなかったら、迷わず試合を投げ出して逃げる自信があった」。
13回防衛の記録を持つ人の言葉としては、かなり率直な部類でしょう。
「私のリカバリー」というシリーズで語られるのは、こうした強さの裏側かもしれません。
よくある質問(Q&A)
Q1. 引退した理由は何ですか?
1981年3月8日の敗戦後、再戦の話が出たものの網膜剥離寸前と診断され1か月通院しました。「元のようには戦えない」と考え、新婚の妻とも話し合ったうえで引退を決めています。
Q2. 最後の試合はどこで行われましたか?
沖縄県具志川市(現在のうるま市)の具志川市立総合体育館です。地元での凱旋試合として組まれた14度目の防衛戦でした。
Q3. 何歳で引退したのですか?
1955年6月26日生まれで、最後の試合が1981年3月8日ですから、25歳での引退でした。
Q4. その試合を覚えているのですか?
本人によれば、序盤でパンチが目に入って視界が悪くなり、そのあとの記憶がないとのことです。ダウンしたことも翌日の報道で知ったと語っています。
Q5. 自分のジムを持っていたのですか?
1995年に、日本人初のボクシング世界王者である白井義男さんと共同で白井・具志堅スポーツジムを開設し、会長を務めました。2020年6月6日に閉館を発表し、同年7月31日に閉館しています。
Q6. どんな選手を育てたのですか?
元日本スーパーフライ級王者の名護明彦さん、元OPBF東洋太平洋ライトフライ級王者の嘉陽宗嗣さんらです。2017年5月20日には所属の比嘉大吾選手がWBC世界フライ級王者となり、同ジムから初の正規世界王者が誕生しました。
Q7. 放送日と放送局は?
2026年8月31日(月)15:00〜15:30、NHK Eテレ「ハートネットTV 私のリカバリー 沖縄のために闘った 具志堅用高」です。きき手はLiLiCoさん、司会は廣瀬雄大さんが務めます。
今後の見通し
番組情報には引退についての記述がありません。
扱われているのは王座獲得と13回防衛、そして沖縄への思いです。
ただしシリーズ名が「私のリカバリー」である以上、
頂点から降りたあとの話に触れられる可能性は十分にあります。
その場合、故郷での最後の一戦は避けて通れない場面になるはずです。
本記事は放送前の公表記録に基づくもので、放送内容を保証するものではありません。
まとめ
具志堅用高さんの引退は、網膜剥離寸前という診断がきっかけでした。
最後の試合は1981年3月8日、沖縄・具志川市での凱旋試合。
唯一の黒星が、故郷のリングでついています。
引退は25歳。その後は解説者、ジム会長、タレントと役割を変えながら続けてきました。
2017年には教え子の比嘉大吾選手が世界王者になっています。
立ち直れたのは辞め方を自分で決めたから、というのが編集部の考察です。
放送は8月31日(月)15:00・NHK Eテレ。